lock-freeアルゴリズムにおけるメモリ回収

これは C++ advent calendar の参加記事です。
もともとは「マルチコア時代のLock-free入門」の補遺として書くつもりだったのが、何だかんだで一年近くほったらかしになってしまっていたので、今回 advent calendar という締切りを課すことでようやく書くことができました。(笑)
前の発表で、lock-freeアルゴリズムC++ で実装するには「タグ付きポインタ」や「Hazard pointer」を使いましょうと言いましたが、具体的な実装コードについてはあまり触れませんでした。そこで、実際に「タグ付きポインタ」と「Hazard pointer」を使い、代表的なlock-freeアルゴリズムである Lock-Free Queue を実装してみました。
GitHub - yamasa/lockfree: Experimental implementations of lock-free algorithms, using hazard pointers and tagged pointers.
タグ付きポインタ版(queue_tagged.h)のほうはC++03とgcc拡張の範囲で実装していますが、Hazard pointer版(queue_hazard.h)のほうはC++0xの機能をバリバリに使っているので、おそらくgcc4.6でしかコンパイルできないと思います。ちょっと調子にのってしまいました。(笑)

「タグ付きポインタ」と「Hazard pointer」の違い

さて、今回実装したタグ付きポインタ版とHazard pointer版のそれぞれの Lock-Free Queue には、単にC++0x対応の有無だけではない大きな違いがあります。それはキューの要素として扱える型の制限です。
タグ付きポインタ版では、キューの要素は trivially copyable な型でなければなりません。 trivially copyable を簡単に説明すると、memcpy相当の操作だけでコピーできてデストラクタでは何も行なわないような型のことです。詳しくはC++0x仕様書やこちらの記事などを参照してください。
何故 trivially copyable でなければならないかというと、タグ付きポインタ版のほうの dequeue 操作では、valueを読み出そうとしてるNodeが他スレッドによって回収・再利用されたのを「検知」することはできても、回収そのものを「保留させる」ことはできないからです。よって、「data race覚悟でvalueをコピーし、直後のCASで失敗したらやり直す」という手段を取らざるを得ません。そのため、非 trivially copyable なクラスだと、他スレッドが書き換え途中の状態を見てしまい、不正なアドレスにアクセスしてしまったりする事故が起きてしまう可能性があるのです。
一方のHazard pointer版では、 dequeue 操作でのNodeの回収・再利用を「保留させる」ことができます。そのため、同時に複数のスレッドがキューの要素へアクセスすることは無いことが保証できるので、ムーブ代入なども自由に利用することが可能になるのです。
このように、同じようなlock-freeアルゴリズムであっても、メモリ回収に用いる手法の違いによって性質が大きく変わってしまうことがあるのです。

ピーターソンのアルゴリズムとメモリバリア


とkumagiさんが言っていたので、ちょっとしたコードを張り付けてみます。

これは wikipedia:ピーターソンのアルゴリズム の実装例で、2つのスレッドが排他制御しながら1つのカウンタをカウントアップしていくというものです。正しく排他制御できているなら、最後に "difference = 0" と出力されるはずです。
しかし実際は、このプログラムにはメモリバリアの記述が不足しているため、マルチコアな環境では "difference = 0" とはなりません。
興味深いのは、変数flag0, flag1, turnのそれぞれを別々のキャッシュラインに置くために __attribute__*1 変数が同じキャッシュラインに置かれているかどうかで動作が変わる、一つの例として紹介してみました。

詰めメモリバリア

ところで、前述のコードはどこにメモリバリアが足りていないのでしょうか? マルチコアでも正しく動作させるために、どのような記述を加えればよいか考えてみてください。
名付けて「詰めメモリバリア」。5分で1級の問題です。:-)

*1:aligned(64))) と指定しているのですが、これを外すとdifferenceの値が激減するのです。((手元のCore 2 Duo機では 4528637 → 26 のような感じになりました。

今ココなう! iPhone用Webアプリのソースコードを公開

私の作成した今ココなう!のiPhone用Webアプリについて、そのソースコードgithubにて公開しました。
このWebアプリは、iPhoneだけでなくAndroid2.1以降やFireFox3.5以降、Chrome5やSafari5など、最近のHTML5対応ブラウザでも利用することができます。アプリが利用している技術要素を以下に列挙してみたので、興味のある方の参考になれば幸いです。

マルチコア時代のLock-free入門

本日、並カンにてLock-freeアルゴリズムについて発表しました。発表資料は以下になります。
なお、今回の発表で割愛したメモリバリアの詳細については、以下の発表資料を参照ください。

また、Hazard pointerやタグ付きポインタを使用したサンプルコードを以下に置いています。こちらも参考にどうぞ。

C++0x時代の Double-Checked Locking

今回は "Double-Checked Locking" (以下DCL)というマルチスレッドプログラム向けのイディオムを例にして、C++0xの(低レイヤ向け)マルチスレッド機能の利用方法を紹介してみます。
DCLとは、「ロック→条件判定」というロジックを「条件判定→ロック→(再度)条件判定」と書き換えるイディオムで、主に遅延初期化などの処理においてロックのオーバーヘッドを減らすために用いられます。DCLはシンプルかつ効果の高いイディオムだったので、一時期もてはやされました。ところが、DCLはコンパイラやCPUによるリオーダーの影響により正しく動作しない場合があることがわかったため(参考1参考2)、今ではアンチパターンと呼ばれることすらある始末です。
しかし、DCLの問題点は、メモリモデルに関する知識があまり知られていなかったことと、プログラミング言語の仕様でメモリモデルが正しく定義されていなかったことにあり、DCLというイディオムそのものは正当なものです。そして、atomic変数とメモリバリアがきちんと定義されている C++0x では、DCLを正しく実装することが可能になったのです。
ではさっそく、「正しい」DCLの実装例を挙げてみましょう。

std::atomic p(nullptr);
std::mutex m;

Hoge& getInstance() {
  Hoge* tmp = p;
  if (tmp == nullptr) {
    std::lock_guard lk(m);
    tmp = p;
    if (tmp == nullptr) {
      tmp = new Hoge();
      p = tmp;
    }
  }
  return *tmp;
}

std::mutex や std::lock_guard は C++0x で追加されたロックを行うためのAPIです。上のコードだと「"std::lock_guard lk(m);" の行で排他ロックを行い、変数lkのスコープの終わり(つまりreturn文の前の行)でアンロックする」という意味になります。DCLの特徴である「条件判定→ロック→(再度)条件判定」という実装になっていることがわかるでしょうか。
このDCL実装の肝は、変数 p がatomic型として宣言されている点です。 C++0x のatomic型は、これまで繰り返し説明してきたように、操作がアトミック(不可分)に行われるだけでなく、メモリアクセスの順序付けを保証する効果(メモリバリア)も持っています。変数 p への読み書きの際にメモリバリア効果が発揮されるため、最初に挙げた「DCLの問題点」を解消できているのです。

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C++0xのメモリバリアをより深く解説してみる

もはや誰得レベルになりつつありますが、今回もメモリバリアについての話です。以前の話の続きになるので、まだの方は初回前回のエントリを先にどうぞ。
さて、まず最初に、C++0xのatomicクラスを使った「正しく同期化されているコード」の例を挙げてみます。

struct Hoge {
   int  foo;
};

// 初期値
std::atomic p(nullptr);

// Thread 1
Hoge* r1 = new Hoge();
r1->foo = 42;
p.store(r1, std::memory_order_release);

// Thread 2
Hoge* r2;
do {
  r2 = p.load(std::memory_order_acquire);
} while (r2 == nullptr);
std::cout << r2->foo;   // 42が出力されることが保証される

Hogeインスタンスのメンバ変数 foo への読み書きに注目すると、アトミック変数 p を介して以下のような順序付けが成立しています。releaseやacquireメモリバリアの意味については初回の記事を参照してください。

r1->foo = 42
  ↓  releaseメモリバリアによる順序付け
p.store(r1, std::memory_order_release)
  ↓
r2 = p.load(std::memory_order_acquire)
  ↓  acquireメモリバリアによる順序付け
r2->foo

このような順序付けが成立している状態を「メンバ変数 foo へのアクセスが正しく同期化されている」と呼び、その結果、 r2->foo の値が42になることが保証されるのです。
では、次のコードはどうでしょうか?

// 初期値
std::atomic p(nullptr);

// Thread 1
Hoge* r1 = new Hoge();
r1->foo = 42;
p.store(r1, std::memory_order_release);

// Thread 2
Hoge* r2;
do {
  r2 = p.load(std::memory_order_relaxed);
} while (r2 == nullptr);
std::cout << r2->foo;   // Data race?

最初のコードとの違いは、Thread 2 側のメモリバリア指定が memory_order_relaxed (メモリバリア無し) に変わっている点です。つまり、先ほどの図で示した「acquireメモリバリアによる順序付け」が無くなっています。その結果、このコードはメンバ変数 foo への読み書きが正しく順序付けられていない、すなわち「正しく同期化されていない」不正なコードということになります。
でも、本当にこのコードは正しく動作しないのでしょうか? Thread 2において、式 r2->foo を評価するには、当然ながら r2 の値がわかっている必要があります。よって、明示的にacquireバリアを指定しなくても、 r2->foo の実行は p.load(...) より前にリオーダーされることはないと考えてよさそうです。従って、「r2->foo の結果は必ず 42 になる」と言い切ってもよさそうな気がします。
しかし、残念ながら一部のプロセッサではそうならないことが知られています(参考文献)。メモリバリアはキャッシュコヒーレンシの動作にも影響を与えているので、メモリバリアが無いとキャッシュメモリ内の古い値を読み込んでしまう可能性があるのです。そのため、acquireメモリバリアを省略した2つめのコードは、やはり正しく同期化されておらず不正だということになります。

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次期C++に導入されるメモリバリアについて解説してみる

前のエントリで次期C++標準(通称C++0x)にatomic型とメモリバリアが導入されるという話をしました。今回はそのC++での実装について、もう少し深く追いかけてみます。
スライド資料では「atomic操作 + acquire/releaseバリア」が基本であると書きましたが、実際に次期C++に導入される予定のatomic APIは、もう少し複雑な仕様になっています。一番の違いは、メモリバリアの種類が増えていることです。
次期C++標準の現在のドラフトでは、メモリバリアの種類を表すenum型の定義は以下のようになっています。

namespace std {
  typedef enum memory_order {
    memory_order_relaxed, memory_order_consume, 
    memory_order_acquire, memory_order_release,
    memory_order_acq_rel, memory_order_seq_cst
  } memory_order;
}

これらのうち、 memory_order_relaxed はメモリバリア効果を全く持たないことを示しており、 memory_order_acquire と memory_order_release はそれぞれ acquire と release のメモリバリア効果を持つことを示しています。また、 memory_order_acq_rel は読み込みと書き込みを同時に行う操作(いわゆる read-modify-write 操作)に対して指定可能で、acquire と release の両方のメモリバリア効果を持つことを示しています。
ところが、実際にatomicクラスに定義されているメンバ関数では、これらよりも「更に強い」メモリバリア指定がデフォルト値となっています。それが、上記enum型の最後に宣言されている memory_order_seq_cst です。
memory_order_seq_cst というメモリバリア指定は Sequential consistency という性質を満たすことを要求しますが、この Sequential consistency について説明する前に、まずは acquire/release バリアを使用した場合に起こり得る奇妙な例を挙げてみます。

// 初期値
std::atomic a(0), b(0);

// Thread 1
a.store(1, std::memory_order_release);

// Thread 2
b.store(1, std::memory_order_release);

// Thread 3
int r1 = a.load(std::memory_order_acquire);
int r2 = b.load(std::memory_order_acquire);

// Thread 4
int r3 = b.load(std::memory_order_acquire);
int r4 = a.load(std::memory_order_acquire);


r1 == 1 && r2 == 0 && r3 == 1 && r4 == 0
という実行結果は起こり得る。

上のコードは、2つのスレッドがそれぞれ別のatomic変数に書き込むとき、その書き込みが他スレッドからどう見えるか、という例です。
r1 == 1 && r2 == 0 という結果が得られたということは、スレッド3からはスレッド1のstore操作がスレッド2よりも先に起こったように見えたことになります。一方、 r3 == 1 && r4 == 0 という結果より、スレッド4からはスレッド2のstore操作のほうが先に起こったように見えているわけです。この2つが両立することは奇妙に思えますが、acquire/releaseメモリバリアはこの様な結果が起こることを認めています。
これを簡単に言うと、「acquire/releaseバリアでは、異なるスレッドがそれぞれ別のatomic変数に対して書き込みを行ったとき、その順序はスレッドごとに違って見えることがある」ということになります。
一方、Sequential consistency ではこの様な挙動は許されません。つまり、以下のようになります。

// 初期値
std::atomic a(0), b(0);

// Thread 1
a.store(1, std::memory_order_seq_cst);

// Thread 2
b.store(1, std::memory_order_seq_cst);

// Thread 3
int r1 = a.load(std::memory_order_seq_cst);
int r2 = b.load(std::memory_order_seq_cst);

// Thread 4
int r3 = b.load(std::memory_order_seq_cst);
int r4 = a.load(std::memory_order_seq_cst);


r1 == 1 && r2 == 0 && r3 == 1 && r4 == 0
という実行結果は起こり得ない。

このように、メモリバリアとして memory_order_seq_cst を使用していれば、異なるatomic変数への書き込みが、どのスレッドからも同じ順序に見えることが保証されます。

Sequential consistencyのオーバーヘッド

ところで、なぜ Sequential consistency を持たない acquire/release バリアが用意されているのでしょうか? それは、Sequential consistency を満たすためには少なからぬ実行コストがかかるからです。
特に NUMA のようなアーキテクチャでは、「異なるメモリ位置に対する書き込みが、全てのプロセッサから同じ順序で観測されなければならない」という Sequential consistency の要求を満たすことは困難です。そのため、C++ では Sequential consistency を要求するメモリバリアと要求しないメモリバリアの両方を用意しているわけです。
メモリバリアの種類を明示的に指定しない場合、 Sequential consistency を要求する memory_order_seq_cst がデフォルトとなります。「ゼロオーバーヘッド原則」を掲げ、徹底的にパフォーマンスにこだわっているはずの C++ にしては珍しく、メモリバリアに関しては最もオーバーヘッドの大きいものがデフォルトになっているのは興味深いですね。

acquire/release メモリバリアでは不十分な例

さて、 acquire/release バリアの挙動についてもう少し例を挙げてみます。最初の例でスレッド1と3、2と4をそれぞれ合体させると以下のようになります。

// 初期値
std::atomic a(0), b(0);

// Thread 1
a.store(1, std::memory_order_release);
int r1 = a.load(std::memory_order_acquire);
int r2 = b.load(std::memory_order_acquire);

// Thread 2
b.store(1, std::memory_order_release);
int r3 = b.load(std::memory_order_acquire);
int r4 = a.load(std::memory_order_acquire);


r2 == 0 && r4 == 0 という実行結果は起こり得る。
(一方、 r1 == 1 && r3 == 1 は常に保証される)

この r2 == 0 && r4 == 0 という実行結果はとても奇妙なものに見えますが、やはり正当なものです。
さらに、上の例から r1, r3 を省くと以下のようになります。

// 初期値
std::atomic a(0), b(0);

// Thread 1
a.store(1, std::memory_order_release);
int r2 = b.load(std::memory_order_acquire);

// Thread 2
b.store(1, std::memory_order_release);
int r4 = a.load(std::memory_order_acquire);


r2 == 0 && r4 == 0 という実行結果は起こり得る。

これはデッカーのアルゴリズムで使われている形そのものです。つまり、「acquire/release バリアだけでは、デッカーのアルゴリズムを実装することは出来ない」ということになります。
これは、acquire/release バリアが Sequential consistency を持たないことによるものなので、メモリバリアを memory_order_seq_cst に変更すれば、上の例でも r2 == 0 && r4 == 0 とはならないことが保証されて、デッカーのアルゴリズムを実装することが出来ます。

x86/x64におけるメモリバリアのオーバーヘッド

最後に、各メモリバリアのオーバーヘッドがどれだけ違うか、具体例を挙げてみましょう。
"C++ Concurrency in Action" の著者である Anthony Williams さんのblogに、x86/x64アーキテクチャでの各メモリバリアを実装する方針についての解説があったので引用します。*1

Memory Ordering Store Load
std::memory_order_relaxed MOV [mem],reg MOV reg,[mem]
std::memory_order_acquire n/a MOV reg,[mem]
std::memory_order_release MOV [mem],reg n/a
std::memory_order_seq_cst XCHG [mem],reg *2 MOV reg,[mem]

x86/x64アーキテクチャでは、メモリアクセスの順序を保証したいときでも、大抵のケースでは明示的なメモリバリア命令を必要としません。いわゆる「強いメモリモデル」を採用しているアーキテクチャということになります。そのため、C++のatomic型の実装についても、基本的には単なるmov命令を発行するだけでOKとなります。(もちろん、コンパイラ上でのリオーダーの抑制は必要ですが。)
しかし、memory_order_seq_cst メモリバリアを伴う書き込みだけは例外です。強いメモリモデルを採用するx86/x64アーキテクチャにおいても、Sequential consistency を満たすためには実行コストの高い命令(xchg命令)を発行しなければならないのです。このことは逆に、Sequential consistency が必要でない場合は、デフォルトの memory_order_seq_cst の代わりに memory_order_release を用いることで性能向上を図れる、ということにもなります。
とは言うものの、実際は挙動のわかりやすさを重視して常に memory_order_seq_cst を使うべきでしょう。マルチスレッドのバグは分かりにくく、再現性も乏しいことが多いので、よほどのことがない限り安全側に寄せたコードを書いたほうが良いと思います。
続き

*1:この実装方針は、IntelAMDのマニュアルの記述からも導き出すことができます。

*2:かわりに "MOV [mem],reg ; MFENCE" という命令列でもよいです。ただし、MFENCEはPentium4以降(SSE2)で追加された命令です。